22回目の夏がやってきた。
22才。私はまだ学生であるが、これは子供の年齢なのか。
そう問われれば誰もが「そんなことはない」と言うだろう。
しかし、かといって大人、というとこれまたちょっと微妙に感じる人もいるだろう。私が「私は立派な大人だ」と言っても、まだ若造が何を言ってるんだと思われるかもしれない。
エリクソンは、社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期をモラトリアムと呼んだ。私は、親に養われているし、責任ある立場であるわけでもない。言ってしまえば自立していないのである。
しかし、もう子供でもない。アイデンティティを確立し社会に出る準備も整っている。もう親の用意した巣でピーピー泣き喚く小鳥でもない。立派な翼を広げ社会という果てしない大空に羽ばたいていかねばならない年齢になってしまったのだ。
先日、私は22才になった。
早いものだ。10代の時は自分が社外人になることなんて考えてもいなかった、ただひたすら今その一瞬が楽しかった。刹那的快楽に身を委ね将来への恐怖や不安から目を背けていた。
だが、もう22才だ。
嫌でも将来について考えねばならない。
でも、22の夏は一生で一度しか来ない。
思い切り夏を楽しめるなんてもうできないかもしれない。
私はいつも夏が来るたび夏への幻想を思い描きたくさんの青春を夢想する。
映画のようなドラマティックな恋。
ギラギラと照り付ける太陽の下、冷たい海水で思い切りはしゃぐ海水浴。
浴衣を着て雰囲気がぐっと大人っぽくなった幼馴染に高まる心臓の音。
風鈴の涼しげな音を聞きながら、
縁側で夜空に輝く花火を見上げ「たーまやー!」とはにかみながら叫んでみる。
そんなノスタルジーな夏を私は毎年夢見るが、現実は家で扇風機に当たり惰眠をむさぼるだけだ。
自分にそんな青春はない事も、
物語のような夏は自分に来る事はなくただのぼせるような暑さにうだるだけの夏になる事も分かっているのに、
何故か夏になると心が少年になるのだ。
ノスタルジーな夏を夢みるのだ。
夏は残酷だ。
いつもありもしない幻想を私に見せる。
誰にでも等しく、毎年必ず夏はくる。
そして、同じ夏は2度とこないのだ。
失った夏はもう取り戻せない。
夏は、残酷だ___
私は、まだ社会に出ていない雛鳥だ。
大人になりきれてない、それでいて子供でもない何者でもない形容し難いモノ。
モラトリアムを抜け出せない夏。
22才の誕生日を迎えると私は酷く焦った。
大人になる前に、子供に戻りたい。
子供のように無邪気に夏を楽しみたい。
今までは、来年の夏こそは、なんて嘯いて空虚な夏を過ごしていたが、
22才になって初めて私は今失われた夏の大切さに気付いた。
今まで沢山の"夏"を失ってきた。
私の夢みる、物語のような夏なんてなんにもなかった。ノスタルジーな気分に浸っていただけで、現実は非情だ。
その事に気付いて私は今酷く後悔している。
だから、今年こそは、夏を全力で楽しむ。
大人になる前に最後に子供として全力で楽しんで、このモラトリアムを抜け出すのだ。
いつまでも幻想にしがみつく子供を抜け出すのだ。
将来の事なんて考えず今楽しむことだけに全力になれる、そんな最後の夏が今始まった。
私は、この夏を誰よりも満喫する。
もう絶対に後悔なんてしない。
今までの空白の夏ではなく、22の夏はこんなにも楽しかったんだ、と大人になってからも自慢できる、そんな夏にしたい。
ありもしないノスタルジックな妄想に浸る事なく、過去のかけがえのない思い出を作りたい。
これは、そんな22の夏最初のブログである。
これから私はその思い出を、最初で最後の「22の夏」をここに綴っていく。
一つ一つ大切な思い出として、記録に残し、私は生涯この夏を忘れない。
夏はまだ、始まったばかりだ。